2019年07月09日18:54野ざらし紀行

野ざらし紀行

野ざらし紀行

序文(朗読31.mp3)、 伊勢往路(朗読32.mp3)、 後醍醐陵(朗読33.mp3)、 二月堂お水取り(朗読34.mp3)、 訃報(朗読35.pm3)

(貞亨元年8月~貞亨2年4月)
 『野ざらし紀行』の旅は、貞享1年8月江戸深川出発から、翌年4月江戸に戻るまでの往路東海道、復路中山道・甲州街道経由江戸帰着までの2千キロの大旅行であった。その中には、先年身罷った母の墓参も含まれてはいたが、俳人芭蕉にとってもっともっと大きな心中期すものがある旅であった。 芭蕉は、延宝9年、江戸の繁華街日本橋から、未だ辺地であった深川に隠棲し、途中甲斐の谷村への疎開などもあったが、総じて深川で詩人としての基礎体力を養成し、この頃までにすでに高い新規性をも蓄積していた。それが、後世「蕉風」という名で称される芭蕉俳諧の源泉であった。その成果を問う旅が、この「野ざらし」なのである。それゆえに、出発に当たっては相当に高くテンションを上げていたのであって、それが冒頭の句「野ざらしを心に風のしむ身哉」に結実しているのであろう。 しかし、その成果は、すぐに現れた。名古屋蕉門の創設とその果実として『冬の日』が編纂されるという想定外の成果が出現したことである。その後は、もはや芭蕉の行くところ歓迎の声一色。蕉風確立の大成功の旅であった。 芭蕉真蹟本として、「藤田本」と「天理本」があるが、ここは前者による。なお、『野ざらし・・』の板本は死後元禄11年に『濁子本』として出版されたものが最初で、芭蕉はこれを知らない。 『野ざらし紀行』は、芭蕉の本格的文芸作品だが、命名は自身ではない。他に『甲子吟行』・『芭蕉翁道乃紀』などの呼称も用いられている。。

序文 (朗読31.mp3)

千里に旅立て、路糧をつゝまず、三更月下無何に入る*と 云けむ、むかしの人の杖にすがりて、貞亨甲子*秋八月江上の破屋をいづる程、風の聲そヾろ寒氣也。

野ざらしを心に風のしむ身哉
(のざらしを こころにかぜの しむみかな)

秋十とせ却て江戸を指古郷
(あきととせ かえってえどを さすこきょう)


箱根越え

 関こゆる日は、雨降て、山皆雲にかくれたり。

雰しぐれ富士をみぬ日ぞ 面白き
(きりしぐれ ふじをみぬひぞ おもしろき)


 何某ちり*と 云けるは、此たびみちのたすけとなりて、萬いたはり心を盡し侍る。常に莫逆の交ふかく*、朋友信有哉此人。

深川や芭蕉を富士に預行  ちり
(ふかがわや ばしょうをふじに あずけゆく)


富士川の捨て子

富士川*のほとりを行に、三つ 計なる捨子の、哀氣に泣有。この川の早瀬にかけてうき世の波をしのぐにたえず。露計の命待まと、捨置けむ、小萩*がもとの秋の風、 こよひやちるらん、あすやしほれんと、袂より喰物なげてとをるに、

猿を聞人捨子に秋の風いかに
(さるをきくひと すてごにあきの かぜいかに)


 いかにぞや、汝ちゝに悪まれたる欤、母にうとまれたるか*。 ちゝは汝を悪にあらじ、母は汝をうとむにあらじ。唯これ天にして、汝が性のつたなき

大井川

大井川越る日*は、終日雨降ければ、

秋の日の雨江戸に指おらん大井川  ちり
(あきのひのあめ えどにゆびおらん おおいがわ)


馬上吟


道のべの木槿は馬にくはれけり
(みちのべの むくげはうまに くわれけり)


小夜の中山

 廿日餘の月かすかに見えて、山の根際いとくらきに、馬上に鞭をたれて、数里いまだ鶏鳴ならず。杜牧が早行の残夢*、小夜の中山*に至りて忽驚く*。

馬に寝て残夢月遠し茶のけぶり
(うまにねて ざんむつきとおし ちゃのけぶり)


伊勢往路 (朗読32.mp3)

松葉屋風瀑*が伊勢に 有けるを尋音信て*、十日計*足をとヾむ。

外宮

腰間に寸鐵をおびず。襟に一嚢をかけて、手に十八の珠を携ふ*。僧に似て塵有。俗に ゝて髪なし*。我僧にあらずといへども、浮屠の属にたぐへて*、神前に入事をゆるさず。  暮て外宮に詣侍りけるに、一ノ華表*の陰ほのくらく、御燈處ゝに見えて、また上もなき峯の松風*、身にしむ計、ふかき心を起して

みそか月なし千とせの杉を抱あらし
(みそかつきなし ちとせのすぎを だくあらし)


西行谷

 西行谷*の麓に流あり。をんなどもの芋をあらふを見るに、

芋洗ふ女西行ならば歌よまむ
(いもあらうおんな さいぎょうならば うたよまん)


茶店にて

 其日のかへさ*、ある茶店に立寄けるに、てふと云けるをんな*、あが名に發句せよと云て、白ききぬ出しけるに書付侍る。

蘭の香やてふの翅にたき物す
(らんのかや ちょうのつばさに たきものす)


茅舍

閑人の茅舎*を とひて <

font size=5 color=blue> 蔦植て竹四五本のあらし哉
(つたうえて たけしごほんの あらしかな)

伊賀上野

 長月の初、古郷に歸りて、北堂の萱草*も霜枯果て、今は跡だになし。何事も昔に 替りて、はらからの鬢*白く、眉皺寄て、只命有てとのみ云て言葉はなきに、このかみ*の守袋をほどきて、母の白髪 おがめよ、浦島の子が玉手箱、汝が まゆもやゝ老たりと、しばらくなきて、

手にとらば消んなみだぞ あつき秋の霜
(てにとらば きえんなみだぞあつき あきのしも)


竹の内

 大和の国に行脚して、葛下の郡竹の内と云處は*、彼のちり*が旧里なれば、日ごろと ヾまりて足を休む。

わた弓や琵琶になぐさむ竹のおく
(わたゆみや びわになぐさむ たけのおく


当麻寺

 二上山當麻寺*に詣で ゝ、庭上の松をみるに、凡千とせもへたるならむ*。大イサ牛をかくす共云べけむ*。かれ非常といへども*、仏縁に ひかれて、斧斤の罪をまぬがれたるぞ*幸にしてたつとし。

僧朝顔幾死にかへる法の松
(そうあさがお いくしにかえる のりのまつ)


奥吉野

 独よし野ゝおくにたどりけるに、まことに山ふかく、白雲峯に重り、烟雨谷を埋ンで、山賎*の家處々にちいさく、西に木を伐音東にひヾき、院々の鐘の聲は心の底にこたふ。むかしよりこの山に入て世を忘たる人の、おほくは詩にのがれ、歌にかくる*。いでや唐土の廬山*といはむもまたむべならずや。
ある坊に一夜を借りて

碪打て我にきかせよや坊が妻
(きぬたうちて われにきかせよ ぼうがつま)


とくとくの泉

 西上人*の草の庵の跡は、奥の院より右の 方二町計わけ入ほど、柴人*のかよふ道のみわづかに有て、さがしき谷をへだてたる、いとたふとし。彼とくとくの清水は昔にかはらずとみえて、今もとくとくと雫落ける。

露とくとく心みに浮世すゝがばや
(つゆとくとく こころみにうきよ すすがばや)


若これ扶桑*に伯夷あらば、必ず口をす ゝがん*。もし是杵(許)由に告ば耳をあらはむ*。

後醍醐陵 (朗読33.mp3)

山を昇り坂を下るに、秋の日既斜になれば、名ある所どころみ残して*、先後醍醐帝*の御廟*を拝む。

御廟年經て忍は何をしのぶ草
(ごびょうとしへて しのぶはなにを しのぶぐさ)


常盤塚

 やまとより山城を經て、近江路に入て美濃に至る。います・山中*を過て、いにしへ常盤の塚有*。伊勢の守武*が 云ける、よし朝殿に似たる秋風とは、いづれの所か似たりけん。我も又、

義朝の心に似たり秋の風
(よしともの こころににたり あきのかぜ)


不破の関

秋風や薮も畠も不破の関
(あきかぜや やぶもはたけも ふわのせき)


大垣

 大垣に泊りける夜は、木因*が家をあるじとす。武蔵野を出づる時、野ざらしを心に おもひて旅立ければ、

しにもせぬ旅寝の果よ秋の暮
(しにもせぬ たびじのはてよ あきのくれ)


桑名

冬牡丹千鳥よ雪のほととぎす
(ふゆぼたん ちどりよゆきの ほととぎす)


桑名浜辺

 草の枕に寝あきて、まだほのぐらきうちに濱のかたに出て*、 明ぼのやしら魚しろきこと一寸
(あけぼのや しらうをしろきこと いっすん)


熱田神宮

 社頭大イニ破れ*、築地はたふれて草村にかくる*。かしこに縄をはりて小社の跡をしるし*、爰に石をす(ゑ)えて其神と名のる*。よもぎ、しのぶ、こゝろのままに生たるぞ、中なかにめでたきよりも心とヾまりける*。

しのぶさへ枯て餅かふやどり 哉
(しのぶさえ かれてもちかう やどりかな)


名古屋

 名護屋に入道の程風吟ス*。

狂句木枯の身は竹齋に似たる 哉
((きょうく)こがらしの みはちくさいに にたるかな)

草枕犬も時雨ゝかよるの こゑ
(くさまくら いぬもしぐるるか よるのこえ)


雪見にありきて

市人よ此笠うらふ雪の傘
(いちびとよ このかさうろう ゆきのかさ)


旅人をみる

馬をさえながむる雪の朝哉
(うまをさえ ながむるゆきの あしたかな)


海邊に日暮して

海くれて鴨のこゑほのかに白し
(うみくれて かものこえ ほのかにしろし)


年の暮

 爰に草鞋をとき、かしこに杖を捨て、旅寝ながらに年の暮ければ、

年暮ぬ笠きて草鞋はきながら
(としくれぬ かさきてわらじ はきながら)


といひいひも、山家に年を越て*、

誰が聟ぞ歯朶に餅おふうしの年
(たがむこぞ しだにもちおう うしのとし)


二月堂お水取り (朗読34.mp3)

 奈良に出る道のほど

春なれや名もなき山の薄霞
(はるなれや なもなきやまの うすがすみ)


二月堂に籠りて*

水とりや氷の僧の沓の音
(みずとりや こおりのそうの くつのおと)


鳴滝

 京にのぼりて、三井秋風*が鳴瀧の山家をとふ。 梅林

梅白し昨日ふや靏を盗れし
(うめしろし きのうやつるを ぬすまれし)


樫の木の花にかまはぬ姿かな
(かしのきや はなにかまわぬ すがたかな)


京都再会

 伏見西岸寺任口上人*に逢 て

わがきぬにふしみの桃の雫せよ
(わがきぬにふしみのもものしずくせよ)


大津に出る道、山路をこ(へ)て*

山路来て何やらゆかしすみれ草
(やまじきてなにやらゆかしすみれぐさ)


湖水の眺望


辛崎の松は花より朧にて
(からさきのまつははなよりおぼろにて)


水口にて、二十年を經て故人*に逢ふ 命二つの中に生きたる櫻哉
(いのちふたつのなかにいきたるさくらかな)


訃報 (朗読35.pm3)

 伊豆の國蛭が小嶋の(僧)桑門*、これも去年の秋より行脚し (て)けるに我が名を聞て草の枕の道づれにもと、尾張の國まで跡をしたひ来りければ、

いざ ともに穂麦喰はん草枕
(いざともに ほむぎくらわん くさまくら)


 此僧予に告げていはく、圓覺寺の大顛和尚*今 年陸(睦)月 の初、迁化し玉ふよし*。まことや夢の心地せらるゝに、先道より其角が許へ申遣しける*。

梅 こひて卯花拝むなみだ哉
(うめこいて うのはなおがむ なみだかな)


杜国との別れ

 杜国に おくる

白げしにはねもぐ蝶の形見哉
(しらげしに はねもぐちょうの かたみかな)


帰路

 ニたび桐葉子*がもとに 有て、今や東に下らんとするに、

牡丹蘂ふかく分出る蜂の名残哉
(ぼたんしべ ふかくわけいずる はちのなごりかな)


甲斐の国

 甲斐の山中*に立ち寄りて、

行駒の麦に慰むやどり哉
(いくこまのむぎになぐさむやどりかな)


おわり

 卯月の末、庵に歸りて旅のつかれをはらすほどに、

夏衣いまだ虱をとりつくさず
(なつごろも いまだしらみを とりつくさず)





――――「野ざらし紀行」おわり――――

野ざらし紀行(検索)
引用文献
朗読 https://koten.kaisetsuvoice.com/Nozarashi/
風雅堂(検索) 『野ざらし紀行』-異界への旅-
芭蕉庵(検索)
野ざらし紀行(出典: フリー百科事典)
『野ざらし紀行』(のざらしきこう)は、江戸時代中期の俳諧師松尾芭蕉の紀行文。貞享元年(1684年)秋の8月から翌年4月にかけて、芭蕉が門人の千里とともに出身地でもある伊賀上野への旅を記した俳諧紀行文。「野ざらし」は、旅立ちに際して詠んだ一句「野ざらしを心に風のしむ身かな」に由来する。ちなみに、門出の歌に「野ざらし」はかなり縁起が悪い。また、出立が甲子であることから「甲子吟行」とも呼ばれる。発句が中心となって文章はその前書き、詞書としての性格が強く出ており、やがて文章に重きを置いた「笈の小文」を経て句文が融合した「おくのほそ道」へと発展する嚆矢としての特徴が現れている。

芭蕉は前年に死去した母の墓参を目的に、江戸から東海道を伊勢へ赴き、伊賀上野を経て大和国から美濃国大垣、名古屋などを巡り伊賀で越年し、京都など上方を旅して熱田に一時滞在し、甲斐国を経て江戸へもどった。

内容
芭蕉は江戸を経つと箱根で霧しぐれに隠れる富士を趣深いと感じ、駿河では富士川のほとりで捨て子を見て、「猿を聞く人捨て子に秋の風いかに」と詠んで杜甫の心境に迫ろうとした。東海道を上って伊勢参りをし、故郷伊賀上野で母親の墓参をし「手にとらば消えんなみだぞあつき秋の霜」の一句をのこした。上方では「山路来て何やらゆかし菫草」の句を詠み、琵琶湖を眺望して「辛崎の松は花より朧にて」と吟じ東海道を下り尾張に滞在し、四月十日に鳴海知足亭を発って木曽・甲州路を経て芭蕉庵に帰還している。





江守孝三(emori kozo)

コメントする

名前
 
  絵文字